私の歌の履歴書

私は歌が大好きで一週間に一度歌わないと背中が病むほどの人間です。

去年田舎に帰った時、親代わりの尊敬する兄が、「歌歌ってるか?」「歌ってない」と返事したら「お前から歌取ったら何が残る?」と言われてガビーンと思ったのでした。私ってそんなに歌のイメージがあるんだ!?と改めて考えさせられたのです。

そういえば三歳の頃から歌い始めて今は亡き父が言うには、私はみかん箱の上で都はるみの「あんこ椿は恋の花」をうなっていたらしいんです。

小学校では「ひな祭り」を独唱したり卒業生を送る会ではピンキーとキラーズの「恋の季節」で校内準優勝だったかな.お友達のキラーズを従えて、帽子も洋服もばっちり用意しました。
その翌年には渚ゆうこの「京都の恋」を美しい姉からひらひらの衣装を借りて歌手気取りで歌ってやはり校内優勝だったと思う。

 

中学高校は合唱部に所属していてメゾソプラノが担当で県大会にも出場しました。17歳の時父が亡くなってその暗い気持ちを英語の先生のアドバイスで「NHKのど自慢」にでたらどう?といわれNHKのど自慢に制服で出ました。

小柳瑠美子の「ゆきあかりの町」で鐘三つ鳴りました。同級生や家族が応援に来てくれて楽しいひとときをもてましたし、あの時は歌で助けられました。

その時のゲスト審査員が森進一さんと西川峰子さんで森進一さんにはあのハスキーな声で「君は優勝候補だったんだよ」と肩をたたかれドキドキしたのを覚えてます。
そしてその時のプロヂューサーが仲代達也に似た素敵な人で、一瞬恋したりもしました。その時に作った拙い小説があるので今度載せますね。笑えますが・・・

そして短大時代は女性だけでバンドを組んだりとか、ホテルのビアガーデンで男女混合のバンドで60年代ポップスを歌ったりとかしてました。「ビキニスタイルのお嬢さん」とか「ダイアナ」「この世の果てまで」あー懐かしいな!

田舎のお祭りではトラックの荷台の上でマイクをもち「君こそわが命」や「ここに幸あり」を歌い拍手喝さいをあびていい気分。

そのあと地方のテレビ局のカラオケ大会で準優勝を頂いてカラオケセット一式と立派な額を頂き、地方の有線大賞では小林幸子の「思い出酒」で歌唱賞かな?

今思えばいろんなジャンルを歌ってましたね。社会人になってからは二次会で歌いに行く常連のお店のカラオケ大会に推薦されたり、歌は日常茶飯事でいつも手の届くところにありました。

カラオケのあるお店に行くとお店のチイママによく間違えられました
当時は大手メーカーのお化粧品のインストラクターをしていてお化粧が華やかで歌って踊れるインストラクターが多く、私も酔うとジルバを踊ります。

こ のジルバというのは父が亡くなったあと親代わりとして育ててくれた兄が大学生の時、昼は左官工事、夜はカウンターバーでアルバイトをしてくれて、その時に 身につけた踊りがジルバだったのです。兄は豪快な人!よくパートナー代わりにおどらされたものでした。そんな兄も去年教職を無事定年退職し、母を介護しな がらも、第二の人生を満喫しているようです。今も兄弟姉妹が集まるとカラオケやジルバと大盛り上がりです!兄や姉には感謝です!

あの頃は毎日の様に飲む機会があり、仕事もパワフルにこなし、今思えばとても幸せなOL時代だったと思いますね。

この仕事で開業してから、はたまた結婚してからというものは歌を歌う機会はトンとご無沙汰になりました。それは仕方ないですよね?家庭が第一ですからね。

そしてお店の下に5人だけ座れる小さなカラオケバーがあったんですが、今はなくなり、ちょっと寂しいかな~

今は月に何回か歌大好き仲間と居酒屋で飲んだ後止まり木のお店でマイクを握る感じですね。

でも、童謡や合唱曲を聴いているとすごく気持ちが高揚するのでいつかまた歌の世界に浸りたいと思っています。

この間、音楽教室に体験で行って、発声練習とイタリア語の歌を先生のピアノ伴奏で歌いました。先生のピアノや声も素晴らしかったし楽しかった。声はソプラノだと言われた。でもアクセスが不便なのと環境が不備のため考えあぐねてます。

歌謡曲や童謡、ポップス、懐かしのメロディや昭和、明治の歌、軍歌も歌うのでいつかボランティアで自分の声がいつか癒やしになれたらいいと思います。だからプロではないけど歌うことは続けていくのです。
以上が私の歌の履歴書でした。つまらないお話しにお付き合い下さり感謝です!